のぞきからくり「幽霊の継子いじめ」

のぞきからくり


概説
 江戸末期にその発生を見て、明治時代に完成発達し、大正年間には全国津々浦々までその足跡を残して、昭和の太平洋戦争前まで、一般大衆に親しみ楽しまれてきた娯楽施設であった「のぞきからくり」は、映画更にテレビの普及によって完全に過去の遺物になり、その語りも装置も全て消え去ろうとしていた。
 これが、我が巻町に一組だけ篤志家の厚意により大切に保存されており、また、蒲原一と謳われた語り大夫も健在で、ここに一連の記録を止め、なお現在の保存がなされて後世に伝えることが出来たのは幸いである。
 「のぞきからくり」のルーツは意外と古く「絵解き」と呼ばれ、仏の教えや寺の縁起などを掛物に仕立て、それを物語風に解説(説教)するもので、現在もある寺院で行われているものが源流であろうとされている。
 その後、すでにお隣の中国では、17世紀にこれに類するものがあったと推定されるが、我が国では江戸時代(享保5年=1720年)に西洋から、線遠近画法が伝えられると、浮世絵の仲間として「眼鏡絵や浮世絵」と呼ばれるものに発展し「覗き眼鏡」(正保3年=1646年には伝来している)と言うレンズを通して見るものとなり、一般大衆に観賞されるようになった。
 はじめは「おおのぞき」と呼ばれる、一個の箱に1個のレンズで一枚の絵を見る形式が、後にはこの箱を数個並べて順次覗き、一連の物語が構成される仕組みに発展し、江戸時代後期(1760年代)に改良されて現在の素型になったものと思われる。
 そして、文明開化の波に乗り、大衆娯楽施設の充実の共に、一層の改良が加えられ、ガス灯やカーバイトランプ、更に電灯とその光源の発達変化によって、より華麗な教えが画かれ、立体感を深めるように工夫されて現存のものとなったのである。
 やがて、活動写真(映画)の登場と、子供達には紙芝居が巡回すると衰退がはじまり、昭和初期(10年頃)まではまだ祭礼、縁日などの演し物として命脈を保ってきたが、戦後は完全にその姿を消してしまった。
 現在保存が確認されているものは、我が巻町の他に、豊中市(原野農芸博物館)と、北九州市(北園忠治氏蔵)の3台のみで、北海道(岩内郷土館)では中ネタの一部が保存展示されているされているのみである。
 この中ネタや看板絵などはまだ全国各地の納屋の奥に眠っているものと考えられる。(巻町郷土資料館資料目録No.10 『のそきからくり―その構造と機能―』より)