峰岡丘陵に立つ三根山藩址の碑。
当時この場所に陣屋を置く。
米百俵の石碑です。

「米百俵の地」三根山藩

巻町峰岡(巻駅バス20分、徒歩7分)

 「米百俵」は、戊辰北越戦争によって極度に困窮していた本家「長岡藩」に対して、三根山藩が見舞いとして贈ったものだった。領内各地から集められた米は、舟戸から矢川、西川を経て信濃川を遡上、長岡へと届けられたと言われている。
 三根山の歴史は、寛永11年(1634 )、当時の長岡藩主「牧野忠成」が、四男「定成」に対して蒲原郡のうち6 千石を分知、旗本牧野氏としてこの地に陣屋を置き、三根山領と呼ばれた知行地を支配することに始まる。その領地は、現在の巻町と岩室村にまたがる17か村だった。
 牧野氏は、文久3 年(1863 )に1 万1 千石に高直りし、「三根山藩」を立藩。明治4 年(1871 )の廃藩置県まで十一代、およそ240 年にわたって、この「三根山牧野家」が続いた。
 三根山は、現在の峰岡を指す。この三根山は、丹後の峰山藩とまぎらわしいため、明治政府により、明治3 年(1870 )、峰岡と改められている。

維新前夜

 そもそも「米百俵」が長岡藩に贈られた時期は、どのような時代だったのか。それは、新生日本が誕生する前夜、幕末の時代にさかのぼる。慶応3 年(1867 )10月、徳川慶喜の「大政奉還」によって、江戸幕府は終わりを告げる。しかし、この時期の政治情勢は非常に混沌としたものだった。突然の大政奉還により、よりどころを失った諸藩は旧幕府軍を結成。薩摩・長州を中心とした薩長諸藩軍と敵対する。

戊辰戦争勃発

 翌明治元年(1868 )1 月、旧幕府軍を薩長諸藩軍が挑発する形で勃発した「鳥羽・伏見の戦い」。この戦は、いわば時代の新旧交代を告げるものだった。旧式装備の旧幕府軍2 万5 千は、最新装備の薩長諸藩軍5 千に完敗する。さらに、この戦において「官軍」(以下、新政府軍)となった薩長諸藩軍は、「錦の御旗」を先頭に掲げ、各街道に鎮撫(ちんぶ)軍を派遣し、旧幕府軍を東に追い詰めていく。こうして、「戊辰戦争」はその幕を上げた。
 鳥羽・伏見の敗戦後、江戸においては、徳川慶喜に代わり「勝海舟」らの重臣に幕府の進退が委ねられる。その答えは、江戸城無血開城というものだった。しかし、これに納得できない旧幕府諸藩は、各隊を結成して東進する新政府軍に対抗する。東北諸藩では、仙台・米沢・会津藩を中心に「奥羽列藩同盟」が結成され、幕府残党諸隊をはじめ、新撰組、伝習隊などが続々とこの同盟に参加した。

長岡藩の行方

 一方、長岡藩上席家老「河井継之助」は、長岡藩をひとつの文化的・経済的な独立組織として、ヨーロッパの公国のように仕立てかえようとしていた。また、当時日本に2 門しかないガトリング砲(機関砲)や最新式のミニエール銃などの配備により、近代的に組織された軍隊を編成し、スイスのような武装中立国を長岡に築こうとしていた。
 しかし、小千谷において行われた新政府軍軍監「岩村精一郎」との会談は、その願いが受け入れられずに決裂。武装中立を完全に却下された長岡藩は、ついに奥羽列藩同盟に参加。明治元年(1868 )5 月、ここに「戊辰北越戦争」が勃発する

戊辰北越戦争と三根山藩

 戊辰北越戦争は、それまで政争の中心から遠かった三根山藩のような小藩をも、妥協を許さぬ対立抗争のなかに引き込んでいった。三根山藩は、長岡藩牧野家の分家として、譜代大名に連なる家柄。当時としては当然ながら、同盟軍寄りの動きを示していた。
 しかし、新政府軍の長岡城占領(1 回目)により状況は一変する。三根山藩は本家長岡藩の敗北を眼のあたりにし、新政府軍に参加すべく、家老「神戸十郎右衛門」を与板藩に送り援助を求めた。
 与板藩では援軍を出す余裕がなく、直接長岡の新政府軍との交渉を進められたが、神戸は長岡には行けなかった。しかし神戸は、出雲崎に駐屯する新政府軍に、「出兵」する旨の使者を出している。神戸が与板に向かった翌日、同盟軍の庄内藩兵が三根山領に入った。領内に入った庄内軍は大砲を向け、三根山を攻める体形をとる。これは、三根山が長岡の支藩でありながら、長岡城の落城を傍観したことをとらえ、三根山藩の進退を明らかにするよう迫るものだった。
 藩では、神戸を与板に送り、新政府軍に参加するよう決めたばかりだった。しかし、庄内軍の威嚇を込めた要求を拒むことは、すなわち自滅を意味する。結局庄内軍の要求に応じ、出兵せざるを得なかった。以後庄内軍と行動を共にし、野積、寺泊、出雲崎と戦闘が繰り返される。

佐幕から倒幕へ

 戦局は、新政府軍が松ヶ崎海岸(新潟市松浜)に上陸することで一転する。新潟、長岡がその手に落ち、退路を断たれた同盟軍は一斉に退却をはじめ、三根山藩兵も帰還する。長岡方面の新政府軍は吉田・弥彦方面に、新潟の新政府軍は内野・大野方面に進出し、三根山藩は南北から挟撃される形となった。
 こうした状況の中、三根山藩は弥彦口、赤塚口の新政府軍に歎願書を出す。その内容は、「重役の神戸を与板に遣わしたがその後どうなったのか、一向に音沙汰がない。そこへ庄内軍が来て同盟軍に加わり出兵せよと要求され、微力のためやむなく出兵した。少人数とはいえ、いったん賊徒に加担したことは重々恐れ入るばかりであるが、小藩微力の藩状を洞察のうえお許し頂きたい」というものだった。その後、赤塚口から新政府軍の使者が三根山に乗り込み、「藩兵の多少にかかわらず即刻新潟に派遣すること」、「藩主も直ちに出頭すべきこと」を強く要求した。
 藩では、藩主「忠泰」とともに藩兵を新潟に派遣。歎願書が聞き届けられ、抗戦の罪はひとまず許されることになった。その後、与板藩ほか三藩と合同して、庄内に進撃するよう命ぜられ、新潟を出発する。一度は行動を共にした庄内藩と、今度はお互い敵として戦うことになった。藩の兵力は83人、藩の全力をあげての出兵だった。

戊辰北越戦争の傷跡

 庄内口への出兵を認められて藩主は謹慎を許され、1 か月振りに藩地に帰ることができた。三根山の安全が確認されると、長岡藩への懸念が大きくなっていく。勝負の行方は確定的であり、賊軍の烙印を押された本家を痛心の思いで見つめていた。藩主「忠泰」は、「傍観ニ難忍」しと、「牧野ノ家名細ク共天籍に相列リ候様」「寛大ノ御仁恵」を願う歎願書を提出している。
 しかし、旗色は同盟軍に圧倒的に悪く、最新鋭武装を誇る長岡藩も3 か月の激戦の末、銃弾に倒れた河井継之助とともに、会津へと敗走する。同盟軍頼みの綱だった新潟港も新政府軍に占領され、奥羽越列藩同盟は、米沢に続き、仙台、さらには奥羽最強の会津藩の降伏により崩壊した。
 こうして、戊辰北越戦争は明治元年(1868 )9 月、奥羽越列藩同盟軍の敗北よって終わった。この戦争によって、三根山藩が受けた直接の影響に軍費の支出がある。藩のもののほかに新政府軍に対するものもあり、これらは後々まで藩財政を圧迫する要因となるが、そうした直接の損失よりも、藩体制に与えた打撃が大きかった。徳川家との君臣関係、長岡藩本家との一体感、こうしたものが外からの圧力によって、ことごとく打ち破られていくことは、時代の流れとはいえ、相当の葛藤があったのではないだろうか。

米百俵

 戊辰北越戦争で敗北した長岡藩は、新政府の処罰により7 万4 千石から2 万4千石へと減封された。長岡藩は極度に窮迫し、士族の中にも三度の粥すらすすることのできない者がいた。
 このような状況の中、明治3年(1870 )5 月、三根山藩から百俵の米が見舞いとして贈られてきた。米を配分されることを一日千秋の思いで待った士族に、長岡藩大参事「小林虎三郎」はこう通達を出す。「この百俵の米は、文武両道に必要な書籍器具の購入に充てる」。贈られた米百俵を売り、その代金を藩の将来を担う人材の育成に使うと言う。食べるものに事欠く藩士たちにとっては、のどから手がでるような米だった。「早く、米を分けろ!」といきり立つ藩士に向かって、虎三郎は「この米を1 日か2 日で食いつぶして何が残る。その日ぐらしを続けるだけでは長岡藩が立ち直ることはない」と諭し、この政策を推し進める。こうして米百俵は売却され、国漢学校の設立に注ぎ込まれた。
 幕末の勤皇家、佐久間象山に学び、吉田寅次郎(松陰)と共に「象門の二虎」と呼ばれた小林虎三郎。破壊され尽した長岡の再建のなかで、虎三郎が重要視していたものは「国が興るも、町が栄えるも、そのもとはことごとく人にある。食えないからこそ、学校を建て、人材を育成するのだ」という教育第一主義の思想だった。三根山藩が贈った米をもとに長岡の地に生まれた、『米百俵の精神』。首相の所信表明に引用されるなど、現在もその精神は脈々と受け継がれている。

戯曲『米百俵』

 この国漢学校創立時の故事をもとにして、「山本有三」が戯曲として書き下ろしたのが『米百俵』。この戯曲は、昭和18年(1943 )、小林虎三郎に関する詳細な研究とあわせて一冊の本にまとめられ出版された。しかし、時代は軍部の支配下にあり、教育と平和の思想で裏打ちされた『米百俵』は、反戦戯曲だと強い弾圧を受け絶版となる。それから30年後の昭和50年(1975 )、長岡市が『米百俵 小林虎三郎の思想』を復刻出版すると大きな反響を呼んだ。さらに、昭和54年(1979 )には歌舞伎座で上演されるなど、その精神は多くの人々に感銘を与えている。昭和18年(1993)には『米百俵 小林虎三郎の天命』として映画化されています。


出典 広報まき 第845号 2001年(平成13年)6月10日より抜粋しました。詳しくは巻町ホームページをご覧下さい。