越後の毒消し


アクセスカウンタ(1996.11.1より)


越後毒消し

 その昔、寺院や名家には必ずと云ってよいほど家伝薬があり、人々の求めに応じて施薬していた。
 能登より移住して来たと伝えられる巻町角海浜は、北前船の立ち寄る港町として繁栄して栄えてきたが、時代が進むにつれて、河口のある港町が繁栄し、それを持たない角海浜は次第に衰微し、困窮の道を辿って行った。  小林弌著『越後の毒消し』(巻町双書)によれば、村の男は生きて行くために、村の寺院の家伝薬「毒消丸」を他国稼ぎの行商の商品として販売することを思いつき実行した。江戸末期の頃である。
 「毒消しいらんかね」と宮城まり子が歌った昭和二十八年頃を頂点として、新薬の進出や、社会情勢の変化などで急速に衰微していくのであった。  巻町の、巻町にしかない、「越後毒消し」は日本産業史の一頁を飾るにふさわしいものである。

由来

 その起源については、弥彦神霊授与説、城願寺唐人伝授説などの言い伝えがある。「ある夜、住職の夢枕に気品高き御姿が現れて万民の疾病をなおす霊薬を与えると告げて消え去った、ふと夢からさめて起きた所、まもなく一人の旅僧が宿を乞うまま歓待、数日看護した所、御礼に霊薬を一包を差し出し、その秘法を明らかにして立ち去った。」これは施薬院と称した称名寺に伝わる、毒消丸の由来である。

行商の始まり

 称名寺は古くは布教のため施薬を行い、やがては檀家以外にも分け与えるようになった。ところが天保十一年、種々の事情で家伝の秘薬「毒消し」の行商を始めるようになった。数年後その製造、販売権を檀家の瀧深庄左エ衛門に譲渡、それを機に売子組織による行商時代が到来した。行商の始めは男だった。当時は関所があり女の出入を取り締まっていたせいであろう江戸末期の元治元年紀興之著「越後土産」は、「角海毒消し」の名で紹介されている。

製薬元

 幕末に始まった毒消し行商は、明治維新により関所が廃棄され、売り子は女の仕事になり急激に増えた。製造元も始めは角見浜の称名寺、城願寺、滝澤の三カ所だったが、次第に五箇、角田、越前浜と角田山を中心として時計の針が廻るように平野部の方に広がっていった城願寺は滝澤家と共に、その製薬量は他を圧した。これら製薬の仕事は昔は売り子の冬仕事だった毒消しをまるめながら、歌う声が庫裡にいっぱい広がったという。

毒消し売りの女

 小学校を出ると親方に連れられ毒消し売りにでる。だいたい嫁に行くまで働く、相手は村の男で大工として一年の大半は出稼ぎに出ているので一年中やもめのような暮らしだが喧嘩する間がないので離婚もしない、嫁となっても毒消し売りを続ける、子供ができると行李の上におぶって行き、三つの声を聞くと姑に預けて出る夫に死別しても後家で暮らし、子供を親類に預けて行商に出かけた。


「越後の毒消し」は巻町郷土資料館の協力により作成しました。
巻町郷土資料館
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